25 対人関係―社会、事業、結婚―に成功する心
もっとも気持のよい処へ、だれもが引力でひかれていきます。ポウスト夫人の難問は対人関係でした。隣人や家族とつねに問題が絶えませんでした。ところが今では、私の知るもっとも人気ある婦人の一人です。かつて彼女は私にこう言いました・・・
「私の全生涯は変わりました。それは数年前のこと、あなたが講演でおっしゃった一言を聞いてからです。あなたの言葉が、ベルを鳴らしたのでした。『だれしも、もっとも気持いい処へ、引力でひかれる』というお言葉でした。それを胸に抱いて家に帰り、私のまわりの空気を楽しくする仕事にかかりました。いまではおおぜいの人が、私のほうへ引力でひかれてくることは、驚くばかりです」
人びとは、あなたを好くとき、あなたに信頼を置くとき、あなたの知識を信じるとき、そして、あなたが熱心なときには、きっと反応してきます。彼らがあなたを信じることを期待なさるなら、なによりもご自分を信じなければなりません。あなたに信頼を置くことを、彼らに望まれるならば、あなた自身に信頼を置かなければなりません。あなたの知識に信頼を置くことを彼らに求めるのなら、あなたが知ることをみずから信じなければなりません。あなたの知識にご自分が信頼を持たなければなりません。あなたが持たぬものを、他の人に与えることはできないからです。
私たち自身についての秘めた信念は、外見に反映します。世間の人たちは、私たちの外見にひきつけられたり、反発したりします。気が弱く、引っこみ思案の人は、歩き方や着物の着こなしや話しぶりで外部的にそれを立証します。もしだれかが闘争的態度であるとか、ごう慢、またはいばるようなことがあれば、それは他の人びとに見破られ、感じられ、自動的に防御の形をもって反応してきます。
だれかがあなたと会うとき、どういう人であるかについての第一印象は、外見をとおしてつくられます。人々はあなたを見て無意識に決定します。あなたはどう見えるのでしょう? どんな態度なのか? どうからだを動かすか? どういう服装か? 無意識に、人々は「あの人の格好を好かない。あの人は己について投げやりな(ぞんざいな)考え方をしているように見える」と言うでしょう。もし、あなたが自分をぞんざいに考えていたならば、他人もまた、あなたをぞんざいに考えるでしょう。
第一印象は目・・・あなたの外見をとおして作られます。それから耳・・・あなたの話し方をとおして作られます。話をする口調の速さで、あなたの声の調子の高低で、声がこころよいか、耳ざわりか、などで判断されます。それから思想内容・・・すなわち何について語るか、などによって判断されます。
あなたの外見は人びとを追いやることもできます(あなたも、ある人々の外見に反発します)。みずからを表現する方法、着物の着こなし、動作など、またあなたの語ることで人をひきつけたり追い払ったりします。あなたの動機は、顔つきや身ぶり、話しぶりに表われます。話す内容のみでなく、話し方によって判断されます。態度は外見に、言葉にあらわれ、世間の人があなたにどう反応するかを決定します。あなたを好きか、好かないかです! あなたは好きな人びとに、よく協力なさるでしょう。他の人びとも、あなたを好きになれば、協力してくれます。
人びとの協力を得たければ、彼らがあなたを信じ、あなたという人間に信頼をよせることが必要です。また、あなたが語ることの内容を知っている・・・知識を持っていると彼らが信じなければなりません。あなた自身は、他人から求める協力が、あなたのためだけでなく、彼らにとっても正しく、かつ善いことを確信していなければなりません。
彼になにをしてもらいたいかにつき、あなたの心が明瞭でなければなりません。そして、それを提示することに熱心さが必要です。熱心であるとともに、根気よくなければなりません。あなたがそれを見るように、彼にも見せることができるほどの技術も必要です。簡単なことではありませんか、どうです。相手をあなた自身と同様に愛し、しかもまずあなた自身を健全に愛していれば、しごく容易なことです。
相手の協力を得るためには、その方の心のなかに、その考えを、あなたが見るほどにはっきりと描くことができなければなりません。あなた自身がそれを明瞭に見て、その絶対の正しさを確信していないかぎり、それはできません。
誰かに何かをしてもらいたいとき、最悪の方法は「あなたに、こうしてもらいたいのだ」と言うことです。もしだれかが私にそう言ったとしたら、私は反発するでしょう。「君にそうしてほしい! 君は私にそうする義務がある! もし私を愛するなら、そうするはずだ!」
そういう要求は、反抗心を誘い出すだけです。
われわれの欲求は、生きること、体験すること、表現することです。しかし相手の人も、まさしく同じことを求めていることを認めなければ、ものすごく愚かです。
私たちはその方を、自身を愛するごとくに愛しているのです。それでもその方も、私たちと同様に、人に支配されることを好みません。私たちも人のものになることを好みませんが、彼も人のものにはなりたくないのです。彼は所有されることを好まないのです。
しかしその方も、私たちに協力し、私たちの望みに同意することが利益であると知れば、親切に協力してくれます。それがその方に善いものだと知れば、自動的にその方向へ動くでしょう。しかしその方は自分で決定することを欲するのです。決定の権利を人に奪われたくないのです。自らの採択を望むのです。
だれにとっても真理であるものは自明のものだけです。どんな真理でも、他の人がそれを見て、受けいれ、かつ使わないかぎり、なんの価値もありません。彼が行うことにしろ、彼が、彼や私たちに善いことだと感じないかぎり、彼にはなんの意味もないのです。それは双方によいものであることを要するのです。真理をだれにも強いることはできません。彼がそれを見るとき、使うときにのみ、真理は彼のものになるのです。
あなたが私に、双方に善いことをなにかしてほしいと望み「それを、あなたにしてもらいたい・・・どうしても、あなたがそれをすることに固執する」と言われるとき、なんとなく私はあなたの確信のなさを直感します。あなた自身に確信があるときは、ごう慢でなく、威たけ高にもならず、いばりもしないでしょう。恐れを抱いていないからです。
あなたの心に恐怖や抵抗(いずれも否定的なコンプレックス)がないとき、あなたは人びとを恐れもしませんし、心配もなしに愛し、かつ協力ができます。あなたの実在の法則を知るとき、それを他の人にもあてはめることができます。
そのコツはあなた自身を、その人の立場に置くことです。それをするには、かなりの想像力を要しますが、しかし、あなたにはできます。あなたの動機が正しいことを確かめなさい。そして正しい動機は、人を動かすと知りなさい。もしも憎しみ、恐怖、所有観念などに動機づけられているならば、苦難に首を突っこむだけです。あなたは愛と同情と相互のためになる欲求によって動機づけられているべきです。
人生における成功は、他の人びとと、いかにじょうずにやってゆくかということに、帰着するようです。つまり、さまざまの人間と接触するという迷路を、どんなふうに切り開いて通るかにかかっているのです。うまく他人に処するということは、他人を使うのではなくて、自分自身を使うことです。当然、私たちは他人が協力してくれることを望みます。しかし、その望む協力を得る方法は、彼らに対する適切な態度によってきまるのです。相互の健全な協力を望むことです。
他人と協調するには、まず自分自身を愛し、自分を尊く思わなければなりません。自分自身を尊ばない人、自分を非難し、さげすむ人は、そのさげすみや非難を他人に投影するものです。そのために他人の抵抗や非難を受けます。だれしも、自分自身にしっくりいかないかぎり、自分を尊び、健全に愛さないかぎり、他人を愛することはできません。自分自身とつきあえないかぎり、他人とつきあえません。なぜなら己の抱える難問が絶えず協力のじゃまをするからです。
よい人間関係のための忠言としては、キリストの言った「われわれ自身を愛するごとくに隣人を愛せよ」という言葉にまさるものはありません。われわれ自身を健全に愛し、そのうえで隣人を、われわれのごとくに愛しなさい、と彼は言ったのです。その意味は、当然、まず自分自身を愛するのだが、それに続いて、われわれ自身の福祉を思うと同じく、隣人の福祉にも、感情的な関心を持つようにということです。
利己的な人は協力から手を引いてしまいます。その方は自分だけを愛します。その方が、他の人びとを自分と同じく愛することを学べば、彼はもはや利己的な人ではありません。彼は協力します。他人の福祉に関心を持ち、そして、人びととうまくやっていきます。人は自分を愛することをやめることはできません。しかし健全な自己愛は、他の人びとを所有することを求めません。他人と協力します。そして、そこに健全な自己表現を見いだすのです。
強い、健康な、活力ある、自尊心に富む人格が、他人ともよくやっていけます。強い人格の人が、よく人を助ける人であり、も同情的でありうる人であり、他の人びとにも深い愛を持ち、やさしい人です。他人に尊ばれようと思えば、まずは自分を尊ばなければなりません。自分自身に同情を持たなければなりません。自分を劣ると感じる人は、大生命力が彼のまえに置く試練に直面して、弱くかつ恐れます。
私たちは己について高い評価を持って生きねばなりません。自分自身を怒り、恐れてもいけません。己を、他人を、また大生命力を信頼しなければなりません。私たちが自らを罪びと(弱く、人に劣り、無能なもの)だと思えば、他人とうまくやって行けません。いつも自分を守ろうと試み、それによって他人とのあいだに距離を設けるからです。人間関係における難関の多くは、私たちの持つ有罪感や拒否感や欠乏感や劣等感を、相手の人に投影することにもとづきます。
気持のよい幸福な人間関係をもつためには、私たちが愛と協力に値することを信じなければなりません。それに値すると感じるような方法で生きるときのみ、その感じを持てます。それに値すると信じないかぎり、持てません。うまくいく人間関係は正しい動機にもとづくものです。唯一の正当な動機は、私たちばかりでなく他の人びとにも善きことです。ということは自分に対する純真かつ健全な愛と、接する人すべてに向かっての同様な愛です。
私は自分自身に約束する
心の平和を乱さないために、私の内の神の力を認める
健康と幸福と繁栄を語る
人種や信仰の如何を問わず、すべての人びとのなかに神性と美しさを認める
明日によき日を期待して、それに備える
おのれの成功に熱心なのと同じく、他人の成功についても熱情を持つ
過去の過誤や被害に背をむけて、未来にむかって楽しい目を向ける
他人を批判する時間のないほどに、愛と奉仕の生活に忙しくある
驚くほど健全な心であり、驚くほど賢明で、驚くほど知性があり、苦難を認めないほどに幸福である
自分自身を善く思い、言葉のみでなく行ないでもそれを広く伝える
他の人びとを善く思い、彼らへの信頼を正当化するよう、彼らに期待する
善のみを愛するがゆえに、世のものすべてが善きことのために協力しているという信念のもとに生きる
神が私の側にあるがゆえ、私に反抗するものはなに一つないと知る
「私の魂は、今、平和に満たされている。私は神と、そして、あらゆる神の子と一つであることを知っている。だから私の世界には敵も他国人も見知らぬ人もいない。神のいかなる部分へも、私は怒りや抵抗を持たない。あらゆる人を含めて、愛の円周を意識して描く。愛と善意が私から出てゆくのだから、善のみが私にかえってくる。すべての不安な考え方から開放されて、私は自由である。私が表現する神の完全な愛が、あらゆる敵意や闘争や混乱をいやす。私の世界におけるすべての事態、物、思考は和解している。完全な調和がある。この静穏と平和状態のなかに、私は安息している」
成功する結婚の法則
結婚は対人関係における最大の冒険です。成功する結婚は愛と相互協力の期待を動機としていなければなりません。各配偶者はお互いに自分を愛するほどに相手を愛さなければ、どんな結婚も成功するものではありません。
結婚したければ夫を得ようと望むよりも、よい妻でありたいと望むべきです。あるいは妻を得ようとするよりも、よい夫でありたいと望むべきです。もしだれかを所有しようと望むなら、あなたは挫折するでしょう。あなたは人に所有されたくなないでしょう、どうですか? もしだれかを所有すれば、あなたも所有されるのです。もしだれかを、縛りつけているとすれば、あなたもその人に縛りつけられているのです。他の人びとをあなたの処へよせつけまいとして周囲に壁をめぐらせば、あなたはそのまま閉じ込められます。そうではありませんか? もしあなたが私を捕えよう・・・所有し、支配するか、自分のものにしようとなされば、私は必ず逃げ出すことを考えます。しかしあなたは、私をひきつけることはできるのです。
人をひきつけるのは態度で、人間はつねに自分と同じ種類の人をひきつけます。ウソつきは、つねに他のウソつきどもに取り巻かれています。不幸な人びとは自動的に他の不幸な人びとと仲よくし、幸福な人は幸福な人びとと集まります。
結婚は一種の協同組合契約です。人生のあらゆる面で組合仲間となることです。15章で、大生命力がそれ自身を表現するのに、四つの主要な面があることを話し合いました。すなわち仕事・・・創造すること。遊び・・・リクリエイション。愛・・・自己を感情的に表現すること。崇敬(大生命力への敬意)・・・知的および霊的成長の四つです。
二人が創造(仕事)の面で協同して事業を行なうと、彼らは創造的活動における組合仲間です。彼らが組んだのは、協力するとその結果として二人とも前以上の人となり、より多くを持ち、より多くをなすことができるからです。一人は事務の仕事をし、配達も行ないます。もう一人は外交をして仕事をとって来ます。こんなふうに活動を合同すると、双方とも利益を得ます。
結婚では二人の人が、表現の四つの面で、生涯を通じての組合にはいるのです。最大の成功は、その活動をもっとも完全に合体したときに生じます。緊密に調和して働き、遊び、愛し、崇敬するときに成功します。大部分の人はこれを理解せず、得ようとはするが、与えたがらないことが多いのです。
私は結婚生活の難題で多くの人から相談を受けて、正しい動機にもとづいて結婚した人が、すこぶる少ないのに驚きました。大部分はなにかの報償を求めて結婚するのです。組合仲間になるというよりも、個人的に利益を得ようとするのです。
げっそりした顔をして私にむかって「なぜ、ジョーンなんかと私は、いっしょになったのでしょうか? 私たちは、ものすごく違うんです。とても、やってはいけません。気があって、目を見合うなんてことは、全くないのです」と言います。それに対する答は、二人とも態度において、動機において健全ではなかった。そうでなければ、初めから、一緒になるはずはなかった、です。二人はなにか内面的に欠けたものの埋め合わせを求めたのです。二人とも神経症だった、と言えます。
優等感のコンプレックスを持つ婦人は、劣等感を持つ男子に関心をよせる傾向があります。彼女はだれかに対していばりたい・・・彼女の自我は高揚を欲するのです。そこで彼女はそれができる相手を求めます。劣等感を感じる男は、優等感コンプレックスを持つ婦人・・・自分の頭をもたせかけられるような人にひかれます。そうすると、なにが起こるでしょうか? 六ヵ月もたつと、彼女は赤児をあやすような仕事に疲れてしまいます。彼のほうは鼻先きをつまんで引っぱり回されるようなことに、うんざりしてしまいます。もし彼らが精神的に病んで、なにかその埋め合わせを求めていたのでなかったならば、最初からこの相手に興味を持つことはなかったのです。不健全な心の人は、自分に似ない人をひきつけるのです。
健全な心の人のばあいは、似たものをひきつけます。健全な心であれば、あなたが思うように思い、あなたが好むとほぼ同じようなものを好む結婚相手をひきつけます。興味をつなぐ広い共通の広場があるばあいには、成功と幸福の最大の可能性があります。二人がまったく同じ興味の広場を持つということはありえませんが、健全な心の人のばあいは、少しばかりの調整が必要なだけです。
健全な心の人は、埋め合わすような報償を相手に求めているのではありません。協力を求めているのです。自我を満足させるものを得ようとしているのではありません。それは寂しい人が、自分をにぎやかにするために、妻や夫を求めるようなものではありません。
実に悲しいことですが、多くの人が金や、性の衝動の満足や、横暴な親から逃げ出すため、寂しいがゆえに結婚するのです。彼らは将来を恐れるか、あるいは働くことに飽きたかです。なにかを逃れようとするか、あるいはなにか足りないものの穴埋めを求めるのです。
二人が正しい動機で結婚して・・・仕事、遊び、愛と崇敬において生涯を通じて組合仲間となるとき、望みどおりの善きものを手に入れ、また、手に入れる権利を持ちます。たとえば財産をつくって、のちにそれを失うようなことがあったとしても、二人は協力して働き、ふたたび財を築きあげます。財産をなくしたことについて争うようなことはしません・・・二人は組合仲間なのです。もし一人が病気になれば、他の人が怒ったりはしません。心を合わせて全快への手当をします。
もし一人または二人とも正しくない目的で結婚したとすれば、結婚の目的としたものが、いつしか消えて無くなってしまうことがよくあります。もし一人の婦人がお金のために結婚したとして(このことを彼女みずからは認めません)、あとになって夫がなにかの不運からお金をなくしたとすると、彼女は「おやおや、私の期待がはずれてしまった」と潜在意識のなかで言います。もちろん彼女は、ほんとうの動機は口に出しません。相談相手の精神医か弁護士のところへ行って「私は彼に我慢できません。彼のするなにもかもが苦痛です。毎朝、部屋の床のまんなかにパジャマを脱ぎっぱなしなんですよ」と言います。
もし男が妻になにか愛情的な不満があれば「彼女には我慢できません。しょっちゅう出歩いてばかりいます。家にいたためしがないのです。女は家にいるべきものです。彼女の両親も私は好きではありません」と言います。これは、なぜ彼らがお互いに「がまんがならない」かの本当の理由ではないのです。それは花火に火をつける口火であり、言いわけにすぎません。
私の知るある男は、細君が練り歯みがきのチューブをいつも先端からでなく中ほどから押し出すから、どうしても我慢がならないと言いました。また一人の婦人は、夫がいびきをかくので、どうしてもがまんできないと言いました。これらは怒りの本当の理由ではないのです。それは表面的な嫌なことなので、本当の理由は、ずっと深いところにあるのです。人が挫折感を持つとか、だまされたとか、バカにされたとか感じるときは、ふつう怒るもので、この怒りは種々雑多な方法で表に出てきます。
口やかましさも、怒りの一つの現われです。ある男はなにかのことで、自我がすぼまされたので、細君にその自我を建て直させようと、努力することがあります。無意識に彼は「君がぼくの欲することをしてくれるまで、ぼくは君にがみついてみせる。君がそれをするまで、ぼくはいじめてやる」と思います。口やかましく、がみつくのは、絶えずだれかの気をもませたり、心をめちゃめちゃにさせたりします。もし私が妻になにかをしてくれるよう頼んでも彼女がしてくれないので、続けざまにその命令を言いつづけるとしたら、それが口やかましく、がみつくことです。彼女は私の要求を知りながら、それをしたくないのだ、と私はその間じゅう心のなかで思っていると、がみついて彼女をみじめにします。彼女がそれをしたくないのだ、と私は知っていても、私の要求を彼女にさせるよう、無理じいをするのです。
ばかにされたとか、威信を落としたという感じに反応する別の方法は、すねて気むずかしくなることです。すねるのは怒りがくすぶることです。ある心理学者は、これを「ばかインディアン・コンプレックス」と名づけたと聞きました。ばか丁寧ではあるが本心をあかさないのです。なにかまちがったことがあるのだ、とわかっても、それがなんであるかを彼は言わないのです。
言うまでもなく、いま現在の結婚生活をなんとかして成功にもっていきたいと、あなたは考えていられるでしょう。もともと、いっしょになった理由がなんであったとしても、それが正しかったにしろ誤っていたにしろ、いまは配偶者と感情的に結びついていて、子どもも持っていられるかもしれませんね。
あなたの結婚を成功させる方法は、あるでしょうか? あります。あなたが結婚を成功に導きたい、と真に思われるならば、方法はあります。しかし、努力をしたくないと思っていられるかもしれません。努力をしたくない、と思われるならば、その人は成功しません。でも、たしかに結婚生活を、うまく進めることは可能です。
身のうえ相談に応じた長年のうちに、多くの女性が同じ話を私のところへ持ってきました。いつも私は、彼女が二人の仲間関係の生活を成功させたいと思うかどうかを尋ねます。きまって彼女は「はい。いまの形では、とても不満ですが、私は夫を愛しています」と答えます。
そこで私はご主人に来てもらいます。
「あなたはいまの結婚生活を成功させたいですか?」
「はい、そうしたいです。いまの生活は変える必要があるかもしれませんが、成功にもっていきたいものです」
それは結構! 二人とも結婚を成功にもっていきたいと望むのです。そこで私は、二人一緒に来てもらいます。まえにひとりひとりに結婚は組合仲間の関係であって、二人には、それぞれ個人的な権利と責任があることをよく説明してあります。当面の問題は彼らが一致しない諸点の調整にあるわけです。結婚は生活の各部門における生涯の組合契約であることを彼らは認めて、この機構をいかに設立し、いかに運営するかを定め、それから二人の将来のために明瞭な、わかりやすい計画を決定するわけです。
四枚の紙をとって、仕事、遊び、愛、そして崇敬(大生命力に対する敬意)において、彼らがいかにその生活を表現しようとするかの詳細を書き出すことが手はじめです。
彼らは仕事のプランを立てます・・・どんなふうに二人の生活のこの部門を築きあげるか? おのおのがなにをするかを計画します。二人とも重要です。創造的生活は男と同様に女にとっても必要です。
それから娯楽を計画します。これは必ずしも彼はゴルフをやってはいけない、彼女は友だちとトランプで遊んではいけない、というのではありません。もし二人が一緒にやれるなら、そのほうがいいのですが、もし彼が、彼女を含めない、ある競技活動をしたければ、彼女も同等の権利を持つのです。
家庭を築くという点については、二人は一緒になって、どうしようとするのか? 家庭生活のプランはなにか? 成長と崇敬の生活においてなにをしようとするのか? 二人を満足させ、二人が同意するプランを立てなければなりません。この方法においてのみ、成功する結婚生活へのプログラムが持てるのです。結婚という組合関係においても、実業界の組合と同じくプランが必要です。そこで私はふつう、その計画(それを誓約と呼びます)に、両人の署名を求めます。二人は新しく発足するのです。再び真に結婚したのだと、私は告げます。
「あなたは彼を夫としたい。あなたは彼女を妻としたい。あなたがたはお互いを組合仲間として求める。いまや確かなプランを持って前進するのです」
最後の提言として、二人に右手を上げてもらい、過去のことを口に出さないこと、愛に満ちた協力のもとに、前記のプランを実行するために全力をつくすことを約束させるのです。この方法を用いて満足にいかなかった例は一つもありませんでした。
二人のうちどちらかが、その努力をしようとしない例はありました。男のほうが「いいえ、私は断念しました!」。あるいは女性が「私は彼を信じません。彼とは組合仲間になれません」と言いました。組合のメンバーになるのを強いることはできません。自由意志からその地位につくのでないかぎり、どんな人もあなたの組合仲間にすることはできません。あなたは相手を所有しているのではありません。組合仲間の関係が、お互いにプラスになるのでないかぎり、それは善くないのです。もし各自が正直であるならば・・・もし各自が相手を所有するとか、上級組合員になって相手に指令しようとかするよりも、ただ普通の仲間になろうとするならば・・・もしお互いに重要な組合員であることを認めるならば・・・その結婚生活は成功です。
このプランは、あらゆる対人関係においても同じです。あなたは隣人を、あなた自身を愛すると同じように愛すレバ良いのです。あなたがたの利害が相互的だからです。全世界がこの真理をみて、それを承認したら、すばらしいことでしょう。商売であろうが、結婚であろうが、世界的事件であろうが、組合メンバー関係が成功的であるためには、あらゆる組合員の利益が相互的でなければならないのです。妻と夫の利益も相互的でなければなりません。もし私が事業において一人の組合関係の仲間を持てば、たしかに私は彼を愛し協力しなければなりません。なぜなら彼が一ドルを儲ければ私はその半分をもらえるからです! 私どもの利益は相互的です。私が相手を愛する以上に己を愛していては、引き合いません。商人とお客の関係もそれと同じです。資本と労働の利益も同じです。
おそらく、いつかそういうことが認められるときが来るでしょう。世間の人びとの利害関係も、広く全世界にわたって同じことです。いつの日か、あらゆる国民の首脳者たちが、これが真実であることを知る日が来るでしょう。いっしょに生きるということは協同組合企業です。利己的ということは、成功的な人間関係にあっては、存在する場所はありません。
幸福な関係には隷属の感じはありません。完全な自由が必要です。誰も、あなたに真実を強いることはできません。真実であることが彼にとって利益であると信じるとき、そして彼が組合仲間になりたいと思うときのみ、彼は真実であるでしょう。各個人は、どこにみずからの最大の価値が存在するかを、選ぶべきなのです。もちろん思考のできる人ならばだれでも、最大の価値は協同組合の事業にあることを認めます。彼ひとりで行くときは、あまり遠路を行けないことも知っています。
二人が仲間になることを選び、組合のプランを作るときは・・・彼らが正しい動機を持っていわば再結婚するときは・・・そして過去をけっして口にしないと約束するならば、きっと幸福に暮らして、健全な企業を築きあげるでしょう。
あなたが結婚するときは、隷属でなく自由を期待するのです。生活の重要な領域において、いわゆる「独身の気楽さ」よりもいっそう多くの自由が期待できます。このいっそう大きな自由に到達するには、ある量の自由を捨てることがつねに必要です。
町なかで自動車を運転するとき、赤い交通信号なら車をとめます。あなたは、ある量の自由を放棄されたのです。まさにそのとおりです。しかし、停止信号の結果として、あなたはいっそう多くの自由を持たれます。もし交通信号がなかったら、安全も自由もほとんどなくなります。もし赤信号で止まらなければ、全く自由のない身になるかもしれません。あなたはなにかを放棄して、いっそう多くを得るのです。それがあなたのなさる結婚です。
私たちは相手の人を、こちらの意見から解放して、自由にさせなければなりません。これをする・・・彼らに彼らなりの意見を考えさせる・・・のは、むずかしいことかもしれません。しかし結婚生活で幸福でありたければ、相手の私生活(物的にも心的にも)には干渉すべきではない、と私は断言したいのです。
隷属のどんな感じからも彼らを開放して自由にすべきです。もし従属させれば、早晩、相手から抵抗を引き出すことは、だれしも、知っているでしょう。
組合の仲間には信頼と尊敬を寄せなければなりません。事業のうえの組合仲間は、相互に信頼を持たねばなりません。一人の仲間が品物を売っているはずのときは、事務所にいるもう一人の仲間は、相手がトランプをして遊んだり、酒場で飲んで時間を空費しているのではない、と思わねばなりません。組合の仲間関係は事務ではありません。組合の仲間関係は特権です。
幸福な結婚生活を望まれるなら、受けとるだけでなく与えることを望まなければなりません。覚えていてください。あなたは夫を得たいと思うのではありません。妻を持ちたいと思うのでもありません。善い組合仲間になろうとしているのです。それが動機ならば、幸福な結婚生活への権利があります。そこで、あなたの人格をこまかく検討し、また分析なさい。ご自分に「私は結婚しようか?」と問いなさい。みずからをよくながめ、あなたの人格に、なにを築きあげるべきかを知りなさい。自分に手を加えて「私は、りっぱな掘り出しものだ。私は理想の人(理想の配偶者)から貴重品として認められるだろう。その理想の相手は、私と組合仲間になりたがるだろう」と言えるまでにしなさい。あなたが組合仲間になる資格があると信じないかぎり、組合仲間になる権利を与えられるとは信じられないものです。それを信じられなければ、すべては苦闘になります。苦闘によって得たものは、苦闘によって保つことになります。
数年前のある晩、私は成功する結婚について講演をしていました。人は初めに組合仲間になろうと思うべきだ、それから自分は貴重品だと思えるようになるまで、自分に手を加えて磨かなければならないと説いていました。
私の講演にいつも欠かさず出席していた一人の婦人が、この会場には初顔の友人を一人連れてきました。その友人は立ち去るとき「さて、私には一仕事する必要ができた」と洩らしました。彼女と、この私の知らない男(ここでは仮にデイブと言っておきましょう)とは、お互いに深く関心を寄せあっていたらしいのですが、そのころ、なにかの理由で、しばらく疎遠になっていたそうです。
話に聞くと、彼女は一年半も彼の顔を見ず、六ヵ月間も便りがなかったのでしたが、彼女の心の灯は消えていなかったのです。講演のあと、彼女は家に帰って、聞いたことについて深く考えました。ついに組合仲間になろうと心から思いました。彼女にぴったりの人と組合仲間になりたいと思い、デイブがそのぴったりの人のように思えました。彼女自身をりっぱな組合員に磨くにはなにをすべきか・・・そして彼が心から彼女と組合仲間になりたいと思うようにするには、どうしたら良いのかと考えはじめました。そして時間のたつのを忘れてしまって、いろいろとプランを練りました。
朝が明ける三時ころに彼女の電話が鳴りました。O市からの長距離電話で、電話線の端にはデイブがいました。彼は言うのです・・・
「今夜は眠れない。あなたのことを考えていた。二人の間を打ち切ったのは、まちがいだったと感じる。二人は、一緒になるべきなんだ。飛行機の切符を送ったから、相談しに、こちらへ来てくないか? ぼくの方からS・F市へ出かけるのは、いまのところ不可能なんだ。それに、あなたが困るかもしれないと思ったから、往復の切符にしておいた」
彼女は、はい行きます、と答えました。しかし、もちろん往復切符の復のほうは使いませんでした。そのかわりデイブ夫人となって、О市にとどまりました。そして最近のうわさに聞くと、彼女は楽しい結婚生活をしているそうです。
これは軽わざみたいな芸当にみえますか? だが、ほんとうに起こったことです。たやすく理解もできることです。煎じつめると、空間は心のなかにだけで、心は空間を超越します。彼女がデイブのことを想いながら、自分自身の心に手を加えていると、デイブの心になにかが起こったのです。あなたとだれかほかの人が、なにかを想いはじめ、それから同じことを同時に話しはじめたようなことが、何べんあったでしょうか?
私たちは、けっして他の人の選択の権利を奪ってはなりません。選ぶ権利というのは、誰にも個性を与えます。もし、選ぶ権利をだれかから奪えば、その人は怒ります。
もしもあなたの結婚生活に調和しないところがあれば、相手を再発見しなさい。夫と結婚したとき、彼を愛していたに違いありません。彼はいまも、あなたが敬服できるような、いくつかの性質を持っているに違いありません。そういう善い性質を紙に書きあげてごらんなさい。おとなならだれでもできます。彼の欠点に目をくれなさるな。彼の善い性質に注意をおきなさい。あなた方ふたりの違うところを、否定的な資本として出発するとき、苦難が起こりはじめるのです。実のところ、その違いが人生を興味深くするのです。彼の幸福に、あなたの興味をつなぎなさい。成長しなさい! おとなになりなさい、
愛は所有することではありません。だれも所有されて喜ぶ人はいません。愛するだれか、愛されるだれかと、いっしょに住むのは特権ですが、私たちは私たち自身に属するのです。愛はふたりを関連させますが、隷属させるものではありません。私たちは他の人に愛されるのを好みます。その人への特権を得るからです。しかし、みずからの愛の表現から幸福を得るのです。なにをするにしても、二人にとって善いことでなければなりません。
毎日、私は愛の驚くべき力に、ますます強い印象を受けます。あなたは、あなた自身を愛しますが、成長するにつれ、他の人びとを愛することを学びます! たえず愛を拡大していかれるのです。あなたの愛は、神の愛が、あなたの人格をとおして表現されたものです。
われわれが神の愛と呼ぶ、宇宙の愛は、あなたの頭上に数えきれないほどふんだんに注がれています。空気、日光、よき土という形で・・・。しかも神はなにに対しても報酬を求めません。あなたの愛は、神の愛の完全な表現となるために、所有すること抜きの、与えることでなければなりません。それを送り出しなさい! あなたには分けまえも多いし、譲り渡せるものも多いのです。大きな愛の井泉の枯れる日は絶対にありません。
愛も友だちもないという欠如感の裏にある深いコンプレックスは、拒否することにあります。人びとがあなたについてどう思うかについて、あなたはどう考えますか? 彼らの思うことを考えても、おそらく彼らはそんなことを思ってはいないのです! しかし、彼らが思っていると、あなたが考ることは、あなたの信念にしたがって、あなたになされるでしょう。彼らがあなたについて何か思っているという、あなたが考える病気を直しなさい。
年齢の思いを追放なさい。外見があなたに損だという考えを払いのけなさい。競争の観念を捨てなさい。あなた自身に信念を持ちなさい。どんな人のことでも、あなたに返ってきては困ると思うようなことを言ってはいけません。マタイ伝十二章の三十六〜三十七節によれば「あなたの話す一つ一つのムダぐちに」あなたは責任があるのです。「汝のことばによって、汝は非とさるべし」です。われわれの言葉によって、われわれ自身を非難するのです!
語られたことばは絵(映像)をつくり、そして裁決は、原因と結果に関する自然法が働いた、たんなる結末なのです。
他人を改革しようとしたり、変えたりすることを試みてはいけません。人びとは他人に否定的考えや絵をぶっつけて、己の欠如、有罪、被害などの感じを転嫁しようします。そうやって、彼ら自身の欠陥をおおい隠そうと試みます。彼らはみずからをだましているのです。ある人びとは、自分の意見を変えるよりもむしろ、他人を改革しようと試みます。改革を必要とするのは、実は改革家なのです。彼自身が有罪だという感じを持っているので、改革を必要とするのです。彼が罪障感を持たなければ、他の人びとを改革して、つくり直そうなどとは考えないはずです。
道徳的怒り・・・他の人びとの不道徳さについての怒りは(それは、は私たちの仕事ではありません)、私たちの体内にあって、清掃を要することを示すものです。それは他人のあやまちだ・・・それは悪いことで改善を要する・・・という考え方は、私たち自身の欠如感か、内部的な不満足感の投影にすぎません。それらを投げ出すことによって、自分の短所から自らを救い出そうとするのです。これは自分を重荷から救おうと試みる誤った方法です。
利己的動機は、他人に必ず感じられます。うまく隠しおおせるものではありません。試みてもムダです。愛がそれへの真の回答です。
ほほえみに、温かく友愛こもる善意を反映させなさい。握手するときは、あなたの友愛が、あなたの手をとおって相手の手へ伝わり、彼がそれを感じとるものと信じなさい。あなた自身に言いなさい・・・
「わが友よ、あなたに対する私の善い感じを私は意識している。この握手をとおして、あなたはそれを感じ、私のほほえみにそれを見ることを私は知っている。私たちの利益は相互的だ。互いに理解しあう。善が私たちから出ていって、また私たちに返ってくる」
求愛のための精神的処置の一つ
私の目は、すべての愛らしきものへ開いている。私はけっしてひとりではない。私の愛は、愛をひきつける。私の心は愛に応答する。私は神の大愛を体内にみなぎらせ、その接触によって病気を直し、祝福し、千の道を通って、それは私に流れ戻る。私はあらゆる人々と、心、からだ、霊をもって統合されている。愛らしいものだけを見る。愛の音楽のみを聞き、また愛のことばのみを話す。私は愛の具現である。
私は偽りの予言を聞かない。他人に動かされない。私には正しい友のみ・・・私の人生を完成させ、私のなかに完全さを見いだすような正しい友のみ・・・があることを知っている。その人にとり私は正しい人間である。私たちの愛は地上の遠い果てからでも、ひきつける力がある。
大愛の法則は正しい行動をもたらす。理想にむかっての愛は、私に完全な道づれ・・・私がその人を必要とするように、その人も私を必要とするような一人・・・を連れてくる。私は神の無限の善さに信念を置く。私の愛は確実で清潔で真である。私は持つものの最良を与え、最良のもののみが私に返ってくる。至高の信念を持って理想に、静かな愛に満ちる。大生命力をして、愛する人をもってこさせる。時間がかかろうとも、私は信念を持ってその人が必ず来ると知って待つ。それが大法則である。「愛はけっしてあやまたない」から。
もっとも気持のよい処へ、だれもが引力でひかれていきます。ポウスト夫人の難問は対人関係でした。隣人や家族とつねに問題が絶えませんでした。ところが今では、私の知るもっとも人気ある婦人の一人です。かつて彼女は私にこう言いました・・・
「私の全生涯は変わりました。それは数年前のこと、あなたが講演でおっしゃった一言を聞いてからです。あなたの言葉が、ベルを鳴らしたのでした。『だれしも、もっとも気持いい処へ、引力でひかれる』というお言葉でした。それを胸に抱いて家に帰り、私のまわりの空気を楽しくする仕事にかかりました。いまではおおぜいの人が、私のほうへ引力でひかれてくることは、驚くばかりです」
人びとは、あなたを好くとき、あなたに信頼を置くとき、あなたの知識を信じるとき、そして、あなたが熱心なときには、きっと反応してきます。彼らがあなたを信じることを期待なさるなら、なによりもご自分を信じなければなりません。あなたに信頼を置くことを、彼らに望まれるならば、あなた自身に信頼を置かなければなりません。あなたの知識に信頼を置くことを彼らに求めるのなら、あなたが知ることをみずから信じなければなりません。あなたの知識にご自分が信頼を持たなければなりません。あなたが持たぬものを、他の人に与えることはできないからです。
私たち自身についての秘めた信念は、外見に反映します。世間の人たちは、私たちの外見にひきつけられたり、反発したりします。気が弱く、引っこみ思案の人は、歩き方や着物の着こなしや話しぶりで外部的にそれを立証します。もしだれかが闘争的態度であるとか、ごう慢、またはいばるようなことがあれば、それは他の人びとに見破られ、感じられ、自動的に防御の形をもって反応してきます。
だれかがあなたと会うとき、どういう人であるかについての第一印象は、外見をとおしてつくられます。人々はあなたを見て無意識に決定します。あなたはどう見えるのでしょう? どんな態度なのか? どうからだを動かすか? どういう服装か? 無意識に、人々は「あの人の格好を好かない。あの人は己について投げやりな(ぞんざいな)考え方をしているように見える」と言うでしょう。もし、あなたが自分をぞんざいに考えていたならば、他人もまた、あなたをぞんざいに考えるでしょう。
第一印象は目・・・あなたの外見をとおして作られます。それから耳・・・あなたの話し方をとおして作られます。話をする口調の速さで、あなたの声の調子の高低で、声がこころよいか、耳ざわりか、などで判断されます。それから思想内容・・・すなわち何について語るか、などによって判断されます。
あなたの外見は人びとを追いやることもできます(あなたも、ある人々の外見に反発します)。みずからを表現する方法、着物の着こなし、動作など、またあなたの語ることで人をひきつけたり追い払ったりします。あなたの動機は、顔つきや身ぶり、話しぶりに表われます。話す内容のみでなく、話し方によって判断されます。態度は外見に、言葉にあらわれ、世間の人があなたにどう反応するかを決定します。あなたを好きか、好かないかです! あなたは好きな人びとに、よく協力なさるでしょう。他の人びとも、あなたを好きになれば、協力してくれます。
人びとの協力を得たければ、彼らがあなたを信じ、あなたという人間に信頼をよせることが必要です。また、あなたが語ることの内容を知っている・・・知識を持っていると彼らが信じなければなりません。あなた自身は、他人から求める協力が、あなたのためだけでなく、彼らにとっても正しく、かつ善いことを確信していなければなりません。
彼になにをしてもらいたいかにつき、あなたの心が明瞭でなければなりません。そして、それを提示することに熱心さが必要です。熱心であるとともに、根気よくなければなりません。あなたがそれを見るように、彼にも見せることができるほどの技術も必要です。簡単なことではありませんか、どうです。相手をあなた自身と同様に愛し、しかもまずあなた自身を健全に愛していれば、しごく容易なことです。
相手の協力を得るためには、その方の心のなかに、その考えを、あなたが見るほどにはっきりと描くことができなければなりません。あなた自身がそれを明瞭に見て、その絶対の正しさを確信していないかぎり、それはできません。
誰かに何かをしてもらいたいとき、最悪の方法は「あなたに、こうしてもらいたいのだ」と言うことです。もしだれかが私にそう言ったとしたら、私は反発するでしょう。「君にそうしてほしい! 君は私にそうする義務がある! もし私を愛するなら、そうするはずだ!」
そういう要求は、反抗心を誘い出すだけです。
われわれの欲求は、生きること、体験すること、表現することです。しかし相手の人も、まさしく同じことを求めていることを認めなければ、ものすごく愚かです。
私たちはその方を、自身を愛するごとくに愛しているのです。それでもその方も、私たちと同様に、人に支配されることを好みません。私たちも人のものになることを好みませんが、彼も人のものにはなりたくないのです。彼は所有されることを好まないのです。
しかしその方も、私たちに協力し、私たちの望みに同意することが利益であると知れば、親切に協力してくれます。それがその方に善いものだと知れば、自動的にその方向へ動くでしょう。しかしその方は自分で決定することを欲するのです。決定の権利を人に奪われたくないのです。自らの採択を望むのです。
だれにとっても真理であるものは自明のものだけです。どんな真理でも、他の人がそれを見て、受けいれ、かつ使わないかぎり、なんの価値もありません。彼が行うことにしろ、彼が、彼や私たちに善いことだと感じないかぎり、彼にはなんの意味もないのです。それは双方によいものであることを要するのです。真理をだれにも強いることはできません。彼がそれを見るとき、使うときにのみ、真理は彼のものになるのです。
あなたが私に、双方に善いことをなにかしてほしいと望み「それを、あなたにしてもらいたい・・・どうしても、あなたがそれをすることに固執する」と言われるとき、なんとなく私はあなたの確信のなさを直感します。あなた自身に確信があるときは、ごう慢でなく、威たけ高にもならず、いばりもしないでしょう。恐れを抱いていないからです。
あなたの心に恐怖や抵抗(いずれも否定的なコンプレックス)がないとき、あなたは人びとを恐れもしませんし、心配もなしに愛し、かつ協力ができます。あなたの実在の法則を知るとき、それを他の人にもあてはめることができます。
そのコツはあなた自身を、その人の立場に置くことです。それをするには、かなりの想像力を要しますが、しかし、あなたにはできます。あなたの動機が正しいことを確かめなさい。そして正しい動機は、人を動かすと知りなさい。もしも憎しみ、恐怖、所有観念などに動機づけられているならば、苦難に首を突っこむだけです。あなたは愛と同情と相互のためになる欲求によって動機づけられているべきです。
人生における成功は、他の人びとと、いかにじょうずにやってゆくかということに、帰着するようです。つまり、さまざまの人間と接触するという迷路を、どんなふうに切り開いて通るかにかかっているのです。うまく他人に処するということは、他人を使うのではなくて、自分自身を使うことです。当然、私たちは他人が協力してくれることを望みます。しかし、その望む協力を得る方法は、彼らに対する適切な態度によってきまるのです。相互の健全な協力を望むことです。
他人と協調するには、まず自分自身を愛し、自分を尊く思わなければなりません。自分自身を尊ばない人、自分を非難し、さげすむ人は、そのさげすみや非難を他人に投影するものです。そのために他人の抵抗や非難を受けます。だれしも、自分自身にしっくりいかないかぎり、自分を尊び、健全に愛さないかぎり、他人を愛することはできません。自分自身とつきあえないかぎり、他人とつきあえません。なぜなら己の抱える難問が絶えず協力のじゃまをするからです。
よい人間関係のための忠言としては、キリストの言った「われわれ自身を愛するごとくに隣人を愛せよ」という言葉にまさるものはありません。われわれ自身を健全に愛し、そのうえで隣人を、われわれのごとくに愛しなさい、と彼は言ったのです。その意味は、当然、まず自分自身を愛するのだが、それに続いて、われわれ自身の福祉を思うと同じく、隣人の福祉にも、感情的な関心を持つようにということです。
利己的な人は協力から手を引いてしまいます。その方は自分だけを愛します。その方が、他の人びとを自分と同じく愛することを学べば、彼はもはや利己的な人ではありません。彼は協力します。他人の福祉に関心を持ち、そして、人びととうまくやっていきます。人は自分を愛することをやめることはできません。しかし健全な自己愛は、他の人びとを所有することを求めません。他人と協力します。そして、そこに健全な自己表現を見いだすのです。
強い、健康な、活力ある、自尊心に富む人格が、他人ともよくやっていけます。強い人格の人が、よく人を助ける人であり、も同情的でありうる人であり、他の人びとにも深い愛を持ち、やさしい人です。他人に尊ばれようと思えば、まずは自分を尊ばなければなりません。自分自身に同情を持たなければなりません。自分を劣ると感じる人は、大生命力が彼のまえに置く試練に直面して、弱くかつ恐れます。
私たちは己について高い評価を持って生きねばなりません。自分自身を怒り、恐れてもいけません。己を、他人を、また大生命力を信頼しなければなりません。私たちが自らを罪びと(弱く、人に劣り、無能なもの)だと思えば、他人とうまくやって行けません。いつも自分を守ろうと試み、それによって他人とのあいだに距離を設けるからです。人間関係における難関の多くは、私たちの持つ有罪感や拒否感や欠乏感や劣等感を、相手の人に投影することにもとづきます。
気持のよい幸福な人間関係をもつためには、私たちが愛と協力に値することを信じなければなりません。それに値すると感じるような方法で生きるときのみ、その感じを持てます。それに値すると信じないかぎり、持てません。うまくいく人間関係は正しい動機にもとづくものです。唯一の正当な動機は、私たちばかりでなく他の人びとにも善きことです。ということは自分に対する純真かつ健全な愛と、接する人すべてに向かっての同様な愛です。
私は自分自身に約束する
心の平和を乱さないために、私の内の神の力を認める
健康と幸福と繁栄を語る
人種や信仰の如何を問わず、すべての人びとのなかに神性と美しさを認める
明日によき日を期待して、それに備える
おのれの成功に熱心なのと同じく、他人の成功についても熱情を持つ
過去の過誤や被害に背をむけて、未来にむかって楽しい目を向ける
他人を批判する時間のないほどに、愛と奉仕の生活に忙しくある
驚くほど健全な心であり、驚くほど賢明で、驚くほど知性があり、苦難を認めないほどに幸福である
自分自身を善く思い、言葉のみでなく行ないでもそれを広く伝える
他の人びとを善く思い、彼らへの信頼を正当化するよう、彼らに期待する
善のみを愛するがゆえに、世のものすべてが善きことのために協力しているという信念のもとに生きる
神が私の側にあるがゆえ、私に反抗するものはなに一つないと知る
「私の魂は、今、平和に満たされている。私は神と、そして、あらゆる神の子と一つであることを知っている。だから私の世界には敵も他国人も見知らぬ人もいない。神のいかなる部分へも、私は怒りや抵抗を持たない。あらゆる人を含めて、愛の円周を意識して描く。愛と善意が私から出てゆくのだから、善のみが私にかえってくる。すべての不安な考え方から開放されて、私は自由である。私が表現する神の完全な愛が、あらゆる敵意や闘争や混乱をいやす。私の世界におけるすべての事態、物、思考は和解している。完全な調和がある。この静穏と平和状態のなかに、私は安息している」
成功する結婚の法則
結婚は対人関係における最大の冒険です。成功する結婚は愛と相互協力の期待を動機としていなければなりません。各配偶者はお互いに自分を愛するほどに相手を愛さなければ、どんな結婚も成功するものではありません。
結婚したければ夫を得ようと望むよりも、よい妻でありたいと望むべきです。あるいは妻を得ようとするよりも、よい夫でありたいと望むべきです。もしだれかを所有しようと望むなら、あなたは挫折するでしょう。あなたは人に所有されたくなないでしょう、どうですか? もしだれかを所有すれば、あなたも所有されるのです。もしだれかを、縛りつけているとすれば、あなたもその人に縛りつけられているのです。他の人びとをあなたの処へよせつけまいとして周囲に壁をめぐらせば、あなたはそのまま閉じ込められます。そうではありませんか? もしあなたが私を捕えよう・・・所有し、支配するか、自分のものにしようとなされば、私は必ず逃げ出すことを考えます。しかしあなたは、私をひきつけることはできるのです。
人をひきつけるのは態度で、人間はつねに自分と同じ種類の人をひきつけます。ウソつきは、つねに他のウソつきどもに取り巻かれています。不幸な人びとは自動的に他の不幸な人びとと仲よくし、幸福な人は幸福な人びとと集まります。
結婚は一種の協同組合契約です。人生のあらゆる面で組合仲間となることです。15章で、大生命力がそれ自身を表現するのに、四つの主要な面があることを話し合いました。すなわち仕事・・・創造すること。遊び・・・リクリエイション。愛・・・自己を感情的に表現すること。崇敬(大生命力への敬意)・・・知的および霊的成長の四つです。
二人が創造(仕事)の面で協同して事業を行なうと、彼らは創造的活動における組合仲間です。彼らが組んだのは、協力するとその結果として二人とも前以上の人となり、より多くを持ち、より多くをなすことができるからです。一人は事務の仕事をし、配達も行ないます。もう一人は外交をして仕事をとって来ます。こんなふうに活動を合同すると、双方とも利益を得ます。
結婚では二人の人が、表現の四つの面で、生涯を通じての組合にはいるのです。最大の成功は、その活動をもっとも完全に合体したときに生じます。緊密に調和して働き、遊び、愛し、崇敬するときに成功します。大部分の人はこれを理解せず、得ようとはするが、与えたがらないことが多いのです。
私は結婚生活の難題で多くの人から相談を受けて、正しい動機にもとづいて結婚した人が、すこぶる少ないのに驚きました。大部分はなにかの報償を求めて結婚するのです。組合仲間になるというよりも、個人的に利益を得ようとするのです。
げっそりした顔をして私にむかって「なぜ、ジョーンなんかと私は、いっしょになったのでしょうか? 私たちは、ものすごく違うんです。とても、やってはいけません。気があって、目を見合うなんてことは、全くないのです」と言います。それに対する答は、二人とも態度において、動機において健全ではなかった。そうでなければ、初めから、一緒になるはずはなかった、です。二人はなにか内面的に欠けたものの埋め合わせを求めたのです。二人とも神経症だった、と言えます。
優等感のコンプレックスを持つ婦人は、劣等感を持つ男子に関心をよせる傾向があります。彼女はだれかに対していばりたい・・・彼女の自我は高揚を欲するのです。そこで彼女はそれができる相手を求めます。劣等感を感じる男は、優等感コンプレックスを持つ婦人・・・自分の頭をもたせかけられるような人にひかれます。そうすると、なにが起こるでしょうか? 六ヵ月もたつと、彼女は赤児をあやすような仕事に疲れてしまいます。彼のほうは鼻先きをつまんで引っぱり回されるようなことに、うんざりしてしまいます。もし彼らが精神的に病んで、なにかその埋め合わせを求めていたのでなかったならば、最初からこの相手に興味を持つことはなかったのです。不健全な心の人は、自分に似ない人をひきつけるのです。
健全な心の人のばあいは、似たものをひきつけます。健全な心であれば、あなたが思うように思い、あなたが好むとほぼ同じようなものを好む結婚相手をひきつけます。興味をつなぐ広い共通の広場があるばあいには、成功と幸福の最大の可能性があります。二人がまったく同じ興味の広場を持つということはありえませんが、健全な心の人のばあいは、少しばかりの調整が必要なだけです。
健全な心の人は、埋め合わすような報償を相手に求めているのではありません。協力を求めているのです。自我を満足させるものを得ようとしているのではありません。それは寂しい人が、自分をにぎやかにするために、妻や夫を求めるようなものではありません。
実に悲しいことですが、多くの人が金や、性の衝動の満足や、横暴な親から逃げ出すため、寂しいがゆえに結婚するのです。彼らは将来を恐れるか、あるいは働くことに飽きたかです。なにかを逃れようとするか、あるいはなにか足りないものの穴埋めを求めるのです。
二人が正しい動機で結婚して・・・仕事、遊び、愛と崇敬において生涯を通じて組合仲間となるとき、望みどおりの善きものを手に入れ、また、手に入れる権利を持ちます。たとえば財産をつくって、のちにそれを失うようなことがあったとしても、二人は協力して働き、ふたたび財を築きあげます。財産をなくしたことについて争うようなことはしません・・・二人は組合仲間なのです。もし一人が病気になれば、他の人が怒ったりはしません。心を合わせて全快への手当をします。
もし一人または二人とも正しくない目的で結婚したとすれば、結婚の目的としたものが、いつしか消えて無くなってしまうことがよくあります。もし一人の婦人がお金のために結婚したとして(このことを彼女みずからは認めません)、あとになって夫がなにかの不運からお金をなくしたとすると、彼女は「おやおや、私の期待がはずれてしまった」と潜在意識のなかで言います。もちろん彼女は、ほんとうの動機は口に出しません。相談相手の精神医か弁護士のところへ行って「私は彼に我慢できません。彼のするなにもかもが苦痛です。毎朝、部屋の床のまんなかにパジャマを脱ぎっぱなしなんですよ」と言います。
もし男が妻になにか愛情的な不満があれば「彼女には我慢できません。しょっちゅう出歩いてばかりいます。家にいたためしがないのです。女は家にいるべきものです。彼女の両親も私は好きではありません」と言います。これは、なぜ彼らがお互いに「がまんがならない」かの本当の理由ではないのです。それは花火に火をつける口火であり、言いわけにすぎません。
私の知るある男は、細君が練り歯みがきのチューブをいつも先端からでなく中ほどから押し出すから、どうしても我慢がならないと言いました。また一人の婦人は、夫がいびきをかくので、どうしてもがまんできないと言いました。これらは怒りの本当の理由ではないのです。それは表面的な嫌なことなので、本当の理由は、ずっと深いところにあるのです。人が挫折感を持つとか、だまされたとか、バカにされたとか感じるときは、ふつう怒るもので、この怒りは種々雑多な方法で表に出てきます。
口やかましさも、怒りの一つの現われです。ある男はなにかのことで、自我がすぼまされたので、細君にその自我を建て直させようと、努力することがあります。無意識に彼は「君がぼくの欲することをしてくれるまで、ぼくは君にがみついてみせる。君がそれをするまで、ぼくはいじめてやる」と思います。口やかましく、がみつくのは、絶えずだれかの気をもませたり、心をめちゃめちゃにさせたりします。もし私が妻になにかをしてくれるよう頼んでも彼女がしてくれないので、続けざまにその命令を言いつづけるとしたら、それが口やかましく、がみつくことです。彼女は私の要求を知りながら、それをしたくないのだ、と私はその間じゅう心のなかで思っていると、がみついて彼女をみじめにします。彼女がそれをしたくないのだ、と私は知っていても、私の要求を彼女にさせるよう、無理じいをするのです。
ばかにされたとか、威信を落としたという感じに反応する別の方法は、すねて気むずかしくなることです。すねるのは怒りがくすぶることです。ある心理学者は、これを「ばかインディアン・コンプレックス」と名づけたと聞きました。ばか丁寧ではあるが本心をあかさないのです。なにかまちがったことがあるのだ、とわかっても、それがなんであるかを彼は言わないのです。
言うまでもなく、いま現在の結婚生活をなんとかして成功にもっていきたいと、あなたは考えていられるでしょう。もともと、いっしょになった理由がなんであったとしても、それが正しかったにしろ誤っていたにしろ、いまは配偶者と感情的に結びついていて、子どもも持っていられるかもしれませんね。
あなたの結婚を成功させる方法は、あるでしょうか? あります。あなたが結婚を成功に導きたい、と真に思われるならば、方法はあります。しかし、努力をしたくないと思っていられるかもしれません。努力をしたくない、と思われるならば、その人は成功しません。でも、たしかに結婚生活を、うまく進めることは可能です。
身のうえ相談に応じた長年のうちに、多くの女性が同じ話を私のところへ持ってきました。いつも私は、彼女が二人の仲間関係の生活を成功させたいと思うかどうかを尋ねます。きまって彼女は「はい。いまの形では、とても不満ですが、私は夫を愛しています」と答えます。
そこで私はご主人に来てもらいます。
「あなたはいまの結婚生活を成功させたいですか?」
「はい、そうしたいです。いまの生活は変える必要があるかもしれませんが、成功にもっていきたいものです」
それは結構! 二人とも結婚を成功にもっていきたいと望むのです。そこで私は、二人一緒に来てもらいます。まえにひとりひとりに結婚は組合仲間の関係であって、二人には、それぞれ個人的な権利と責任があることをよく説明してあります。当面の問題は彼らが一致しない諸点の調整にあるわけです。結婚は生活の各部門における生涯の組合契約であることを彼らは認めて、この機構をいかに設立し、いかに運営するかを定め、それから二人の将来のために明瞭な、わかりやすい計画を決定するわけです。
四枚の紙をとって、仕事、遊び、愛、そして崇敬(大生命力に対する敬意)において、彼らがいかにその生活を表現しようとするかの詳細を書き出すことが手はじめです。
彼らは仕事のプランを立てます・・・どんなふうに二人の生活のこの部門を築きあげるか? おのおのがなにをするかを計画します。二人とも重要です。創造的生活は男と同様に女にとっても必要です。
それから娯楽を計画します。これは必ずしも彼はゴルフをやってはいけない、彼女は友だちとトランプで遊んではいけない、というのではありません。もし二人が一緒にやれるなら、そのほうがいいのですが、もし彼が、彼女を含めない、ある競技活動をしたければ、彼女も同等の権利を持つのです。
家庭を築くという点については、二人は一緒になって、どうしようとするのか? 家庭生活のプランはなにか? 成長と崇敬の生活においてなにをしようとするのか? 二人を満足させ、二人が同意するプランを立てなければなりません。この方法においてのみ、成功する結婚生活へのプログラムが持てるのです。結婚という組合関係においても、実業界の組合と同じくプランが必要です。そこで私はふつう、その計画(それを誓約と呼びます)に、両人の署名を求めます。二人は新しく発足するのです。再び真に結婚したのだと、私は告げます。
「あなたは彼を夫としたい。あなたは彼女を妻としたい。あなたがたはお互いを組合仲間として求める。いまや確かなプランを持って前進するのです」
最後の提言として、二人に右手を上げてもらい、過去のことを口に出さないこと、愛に満ちた協力のもとに、前記のプランを実行するために全力をつくすことを約束させるのです。この方法を用いて満足にいかなかった例は一つもありませんでした。
二人のうちどちらかが、その努力をしようとしない例はありました。男のほうが「いいえ、私は断念しました!」。あるいは女性が「私は彼を信じません。彼とは組合仲間になれません」と言いました。組合のメンバーになるのを強いることはできません。自由意志からその地位につくのでないかぎり、どんな人もあなたの組合仲間にすることはできません。あなたは相手を所有しているのではありません。組合仲間の関係が、お互いにプラスになるのでないかぎり、それは善くないのです。もし各自が正直であるならば・・・もし各自が相手を所有するとか、上級組合員になって相手に指令しようとかするよりも、ただ普通の仲間になろうとするならば・・・もしお互いに重要な組合員であることを認めるならば・・・その結婚生活は成功です。
このプランは、あらゆる対人関係においても同じです。あなたは隣人を、あなた自身を愛すると同じように愛すレバ良いのです。あなたがたの利害が相互的だからです。全世界がこの真理をみて、それを承認したら、すばらしいことでしょう。商売であろうが、結婚であろうが、世界的事件であろうが、組合メンバー関係が成功的であるためには、あらゆる組合員の利益が相互的でなければならないのです。妻と夫の利益も相互的でなければなりません。もし私が事業において一人の組合関係の仲間を持てば、たしかに私は彼を愛し協力しなければなりません。なぜなら彼が一ドルを儲ければ私はその半分をもらえるからです! 私どもの利益は相互的です。私が相手を愛する以上に己を愛していては、引き合いません。商人とお客の関係もそれと同じです。資本と労働の利益も同じです。
おそらく、いつかそういうことが認められるときが来るでしょう。世間の人びとの利害関係も、広く全世界にわたって同じことです。いつの日か、あらゆる国民の首脳者たちが、これが真実であることを知る日が来るでしょう。いっしょに生きるということは協同組合企業です。利己的ということは、成功的な人間関係にあっては、存在する場所はありません。
幸福な関係には隷属の感じはありません。完全な自由が必要です。誰も、あなたに真実を強いることはできません。真実であることが彼にとって利益であると信じるとき、そして彼が組合仲間になりたいと思うときのみ、彼は真実であるでしょう。各個人は、どこにみずからの最大の価値が存在するかを、選ぶべきなのです。もちろん思考のできる人ならばだれでも、最大の価値は協同組合の事業にあることを認めます。彼ひとりで行くときは、あまり遠路を行けないことも知っています。
二人が仲間になることを選び、組合のプランを作るときは・・・彼らが正しい動機を持っていわば再結婚するときは・・・そして過去をけっして口にしないと約束するならば、きっと幸福に暮らして、健全な企業を築きあげるでしょう。
あなたが結婚するときは、隷属でなく自由を期待するのです。生活の重要な領域において、いわゆる「独身の気楽さ」よりもいっそう多くの自由が期待できます。このいっそう大きな自由に到達するには、ある量の自由を捨てることがつねに必要です。
町なかで自動車を運転するとき、赤い交通信号なら車をとめます。あなたは、ある量の自由を放棄されたのです。まさにそのとおりです。しかし、停止信号の結果として、あなたはいっそう多くの自由を持たれます。もし交通信号がなかったら、安全も自由もほとんどなくなります。もし赤信号で止まらなければ、全く自由のない身になるかもしれません。あなたはなにかを放棄して、いっそう多くを得るのです。それがあなたのなさる結婚です。
私たちは相手の人を、こちらの意見から解放して、自由にさせなければなりません。これをする・・・彼らに彼らなりの意見を考えさせる・・・のは、むずかしいことかもしれません。しかし結婚生活で幸福でありたければ、相手の私生活(物的にも心的にも)には干渉すべきではない、と私は断言したいのです。
隷属のどんな感じからも彼らを開放して自由にすべきです。もし従属させれば、早晩、相手から抵抗を引き出すことは、だれしも、知っているでしょう。
組合の仲間には信頼と尊敬を寄せなければなりません。事業のうえの組合仲間は、相互に信頼を持たねばなりません。一人の仲間が品物を売っているはずのときは、事務所にいるもう一人の仲間は、相手がトランプをして遊んだり、酒場で飲んで時間を空費しているのではない、と思わねばなりません。組合の仲間関係は事務ではありません。組合の仲間関係は特権です。
幸福な結婚生活を望まれるなら、受けとるだけでなく与えることを望まなければなりません。覚えていてください。あなたは夫を得たいと思うのではありません。妻を持ちたいと思うのでもありません。善い組合仲間になろうとしているのです。それが動機ならば、幸福な結婚生活への権利があります。そこで、あなたの人格をこまかく検討し、また分析なさい。ご自分に「私は結婚しようか?」と問いなさい。みずからをよくながめ、あなたの人格に、なにを築きあげるべきかを知りなさい。自分に手を加えて「私は、りっぱな掘り出しものだ。私は理想の人(理想の配偶者)から貴重品として認められるだろう。その理想の相手は、私と組合仲間になりたがるだろう」と言えるまでにしなさい。あなたが組合仲間になる資格があると信じないかぎり、組合仲間になる権利を与えられるとは信じられないものです。それを信じられなければ、すべては苦闘になります。苦闘によって得たものは、苦闘によって保つことになります。
数年前のある晩、私は成功する結婚について講演をしていました。人は初めに組合仲間になろうと思うべきだ、それから自分は貴重品だと思えるようになるまで、自分に手を加えて磨かなければならないと説いていました。
私の講演にいつも欠かさず出席していた一人の婦人が、この会場には初顔の友人を一人連れてきました。その友人は立ち去るとき「さて、私には一仕事する必要ができた」と洩らしました。彼女と、この私の知らない男(ここでは仮にデイブと言っておきましょう)とは、お互いに深く関心を寄せあっていたらしいのですが、そのころ、なにかの理由で、しばらく疎遠になっていたそうです。
話に聞くと、彼女は一年半も彼の顔を見ず、六ヵ月間も便りがなかったのでしたが、彼女の心の灯は消えていなかったのです。講演のあと、彼女は家に帰って、聞いたことについて深く考えました。ついに組合仲間になろうと心から思いました。彼女にぴったりの人と組合仲間になりたいと思い、デイブがそのぴったりの人のように思えました。彼女自身をりっぱな組合員に磨くにはなにをすべきか・・・そして彼が心から彼女と組合仲間になりたいと思うようにするには、どうしたら良いのかと考えはじめました。そして時間のたつのを忘れてしまって、いろいろとプランを練りました。
朝が明ける三時ころに彼女の電話が鳴りました。O市からの長距離電話で、電話線の端にはデイブがいました。彼は言うのです・・・
「今夜は眠れない。あなたのことを考えていた。二人の間を打ち切ったのは、まちがいだったと感じる。二人は、一緒になるべきなんだ。飛行機の切符を送ったから、相談しに、こちらへ来てくないか? ぼくの方からS・F市へ出かけるのは、いまのところ不可能なんだ。それに、あなたが困るかもしれないと思ったから、往復の切符にしておいた」
彼女は、はい行きます、と答えました。しかし、もちろん往復切符の復のほうは使いませんでした。そのかわりデイブ夫人となって、О市にとどまりました。そして最近のうわさに聞くと、彼女は楽しい結婚生活をしているそうです。
これは軽わざみたいな芸当にみえますか? だが、ほんとうに起こったことです。たやすく理解もできることです。煎じつめると、空間は心のなかにだけで、心は空間を超越します。彼女がデイブのことを想いながら、自分自身の心に手を加えていると、デイブの心になにかが起こったのです。あなたとだれかほかの人が、なにかを想いはじめ、それから同じことを同時に話しはじめたようなことが、何べんあったでしょうか?
私たちは、けっして他の人の選択の権利を奪ってはなりません。選ぶ権利というのは、誰にも個性を与えます。もし、選ぶ権利をだれかから奪えば、その人は怒ります。
もしもあなたの結婚生活に調和しないところがあれば、相手を再発見しなさい。夫と結婚したとき、彼を愛していたに違いありません。彼はいまも、あなたが敬服できるような、いくつかの性質を持っているに違いありません。そういう善い性質を紙に書きあげてごらんなさい。おとなならだれでもできます。彼の欠点に目をくれなさるな。彼の善い性質に注意をおきなさい。あなた方ふたりの違うところを、否定的な資本として出発するとき、苦難が起こりはじめるのです。実のところ、その違いが人生を興味深くするのです。彼の幸福に、あなたの興味をつなぎなさい。成長しなさい! おとなになりなさい、
愛は所有することではありません。だれも所有されて喜ぶ人はいません。愛するだれか、愛されるだれかと、いっしょに住むのは特権ですが、私たちは私たち自身に属するのです。愛はふたりを関連させますが、隷属させるものではありません。私たちは他の人に愛されるのを好みます。その人への特権を得るからです。しかし、みずからの愛の表現から幸福を得るのです。なにをするにしても、二人にとって善いことでなければなりません。
毎日、私は愛の驚くべき力に、ますます強い印象を受けます。あなたは、あなた自身を愛しますが、成長するにつれ、他の人びとを愛することを学びます! たえず愛を拡大していかれるのです。あなたの愛は、神の愛が、あなたの人格をとおして表現されたものです。
われわれが神の愛と呼ぶ、宇宙の愛は、あなたの頭上に数えきれないほどふんだんに注がれています。空気、日光、よき土という形で・・・。しかも神はなにに対しても報酬を求めません。あなたの愛は、神の愛の完全な表現となるために、所有すること抜きの、与えることでなければなりません。それを送り出しなさい! あなたには分けまえも多いし、譲り渡せるものも多いのです。大きな愛の井泉の枯れる日は絶対にありません。
愛も友だちもないという欠如感の裏にある深いコンプレックスは、拒否することにあります。人びとがあなたについてどう思うかについて、あなたはどう考えますか? 彼らの思うことを考えても、おそらく彼らはそんなことを思ってはいないのです! しかし、彼らが思っていると、あなたが考ることは、あなたの信念にしたがって、あなたになされるでしょう。彼らがあなたについて何か思っているという、あなたが考える病気を直しなさい。
年齢の思いを追放なさい。外見があなたに損だという考えを払いのけなさい。競争の観念を捨てなさい。あなた自身に信念を持ちなさい。どんな人のことでも、あなたに返ってきては困ると思うようなことを言ってはいけません。マタイ伝十二章の三十六〜三十七節によれば「あなたの話す一つ一つのムダぐちに」あなたは責任があるのです。「汝のことばによって、汝は非とさるべし」です。われわれの言葉によって、われわれ自身を非難するのです!
語られたことばは絵(映像)をつくり、そして裁決は、原因と結果に関する自然法が働いた、たんなる結末なのです。
他人を改革しようとしたり、変えたりすることを試みてはいけません。人びとは他人に否定的考えや絵をぶっつけて、己の欠如、有罪、被害などの感じを転嫁しようします。そうやって、彼ら自身の欠陥をおおい隠そうと試みます。彼らはみずからをだましているのです。ある人びとは、自分の意見を変えるよりもむしろ、他人を改革しようと試みます。改革を必要とするのは、実は改革家なのです。彼自身が有罪だという感じを持っているので、改革を必要とするのです。彼が罪障感を持たなければ、他の人びとを改革して、つくり直そうなどとは考えないはずです。
道徳的怒り・・・他の人びとの不道徳さについての怒りは(それは、は私たちの仕事ではありません)、私たちの体内にあって、清掃を要することを示すものです。それは他人のあやまちだ・・・それは悪いことで改善を要する・・・という考え方は、私たち自身の欠如感か、内部的な不満足感の投影にすぎません。それらを投げ出すことによって、自分の短所から自らを救い出そうとするのです。これは自分を重荷から救おうと試みる誤った方法です。
利己的動機は、他人に必ず感じられます。うまく隠しおおせるものではありません。試みてもムダです。愛がそれへの真の回答です。
ほほえみに、温かく友愛こもる善意を反映させなさい。握手するときは、あなたの友愛が、あなたの手をとおって相手の手へ伝わり、彼がそれを感じとるものと信じなさい。あなた自身に言いなさい・・・
「わが友よ、あなたに対する私の善い感じを私は意識している。この握手をとおして、あなたはそれを感じ、私のほほえみにそれを見ることを私は知っている。私たちの利益は相互的だ。互いに理解しあう。善が私たちから出ていって、また私たちに返ってくる」
求愛のための精神的処置の一つ
私の目は、すべての愛らしきものへ開いている。私はけっしてひとりではない。私の愛は、愛をひきつける。私の心は愛に応答する。私は神の大愛を体内にみなぎらせ、その接触によって病気を直し、祝福し、千の道を通って、それは私に流れ戻る。私はあらゆる人々と、心、からだ、霊をもって統合されている。愛らしいものだけを見る。愛の音楽のみを聞き、また愛のことばのみを話す。私は愛の具現である。
私は偽りの予言を聞かない。他人に動かされない。私には正しい友のみ・・・私の人生を完成させ、私のなかに完全さを見いだすような正しい友のみ・・・があることを知っている。その人にとり私は正しい人間である。私たちの愛は地上の遠い果てからでも、ひきつける力がある。
大愛の法則は正しい行動をもたらす。理想にむかっての愛は、私に完全な道づれ・・・私がその人を必要とするように、その人も私を必要とするような一人・・・を連れてくる。私は神の無限の善さに信念を置く。私の愛は確実で清潔で真である。私は持つものの最良を与え、最良のもののみが私に返ってくる。至高の信念を持って理想に、静かな愛に満ちる。大生命力をして、愛する人をもってこさせる。時間がかかろうとも、私は信念を持ってその人が必ず来ると知って待つ。それが大法則である。「愛はけっしてあやまたない」から。