台湾の海底遺跡と巨石遺跡
海底遺跡
「この地球上には考古学で探求されなければならない場所がいっぱいある! ・・・だが、いつか水中考古学がすべての真相を明らかにするだろう。・・・私の予想では、アトランティスも見つかる」 (ノルウエイの考古学者トール・ヘイエルダールのインタビューから The Independent March 12, 2000)
謝さん、黄さん、郭さん
「ダイチさん、見てみて、城壁が見えますよ!」と台湾の実業家・郭永生さんが叫ぶ。
ダイビングのタンクを背負って、マウスピースを口にくわえ、海に飛び込む寸前の私は、郭さんのいる船首まではいけない。仲間がすでに海底で待っている。だが、船際から身を乗り出して郭さんの指さす方向を見た。
驚いたことに鏡のように平らになった海面から、くっきりと城壁が見えた。海底に銀色の城壁が延々と続いている。
船の上から写真を撮りたい・・・と思ったが、これ以上仲間を海の底で待たせることもできない。しかたなく、バックロール・エントリー(背中から海に落ちるように入る方法)で海に飛び込むと、そこにあったのは黒茶色の岩の城壁だった。
ここは虎井島東側の岸壁から一〇〇メートル沖合。虎井島は中国大陸と台湾本島の間に横たわる澎湖群島の一つで、軍事要塞になっている。
台北の松山空港から南西に飛んで四五分、澎湖島の馬公に到着。風光明媚な澎湖島はハネムーン客や観光客であふれていた。だが、今回調査を共にした作家グラハム・ハンコックと私は翌朝からすぐに調査ダイブに取り組んだ。
朝の九時、「潮が流れているけど、まあ、ダイブできないこともないでしょう」と、城壁の発見者で案内役の謝新曦さん。
台湾の海底の城壁
そこでグループに分かれて飛び込んだ。私はグループ・リーダーの卓さんの案内にしたがった。城壁らしき岩の 崖に沿って、潮に逆らって進んでいく。途中に切れ目がある。ここは干潮で海が浅くなったときに通った船の船底がぶつかって壊れたのではないかと、謝さんが 言っていたところだろう。
潮の流れは強かった。だが、奇妙なことに時々、逆流ではなく、後ろからも押してくる。深さは三メートルから八メートルぐらいで浅い。浅いので長時間潜水できたが、潮と戦っているうちに疲れてきた。
第二回目のダイビングする前には、少し時間を空ける必要がある。だが、待つ間もなく海面が波立ち、あっという間に強烈な潮が流れ始める。
「ダイビングは無理だから上陸して島を見ましょう」と謝さん。
虎井島の港に入ると、軍隊のトラックと小型バスが待っており、島の東側の高台に登った。島の東側には防空壕がたくさんあり、高射砲や戦車が隠されている。この高台からはその日に潜った城壁一帯が一望にできるが、城壁のあるあたりで白波が立っている。
翌朝は朝五時に起きて六時には船に乗り、七時には虎井島の東側に着いていた。潮は流れていない。このあたりは八卦の潮といって、八方から潮が流れてくる。地元の漁師によると、潮が止まるのは朝だけだそうだ。
早速、海に飛び込んだ。まず、訪れたのは、城壁が円形になっている場所だ。直径二五メートルの丸い台座になっているという。確かに丸くなっている壁は確認したが、全体像はつかめなかった。丸い台座がすべて現在まで残っているのではないようだ。
城壁は四角い岩でできている
城壁に戻ると、岩を積んだような壁に出くわした。積まれたような石は、取り外すこともできる。大きさは三〇 センチx六〇センチぐらい。写真のように階段状のところもある。階段は自然にできた岩脈では考えられないものだ。城壁の厚さは二~三メートル。高さは場所 によって三メートルから五メートルぐらい。城壁は南北に二〇〇メートルほど延びており、途中に南北に走る城壁と交差している。北へ延びる城壁の端には丸い 台座の残骸がある。一方、東西に走る城壁も一五〇メートルほどは確認されている。東の沖に向かって深さ四〇~五〇メートルまでは城壁があるそうだが、私は 深さ二〇メートルのところから引き返した。城壁の近辺には四角い石がごろごろ転がっている。
一体これは、なんなのか?
澎湖群島には「沈城」の伝説が残っている。西暦七〇〇年ごろに、このあたりで城が沈んだというものだ。だが、当時の文献に地震の記録も残っておらず、地 質学的にも地震で沈下した様子はないと学者たちはいう。そうなると、海底から火山が吹き上げてできた岩脈だろうか? あるいは悠久の太古に存在した未知の 文明によってつくられた城壁の残骸だろうか?
一緒に潜った地質学者でベテランダイバーの黄漢勇さんは言う。「地質学者としては、本格的に調査しないとなんともいえません。でもダイバーとしては、古代の城壁だったらいいな、と思います」
「これは悠久の昔の城壁の廃虚に違いないと思う。さらなる調査は必要だが、まず間違いなく人工的な壁だ」とグラハム・ハンコックは断言。
では、私はどう思うか?
こんな石がたくさん転がって
「これは人によってつくられた城壁の残がいである可能性が強い」
なぜなら、最近、世界中で、海底に都市が発見されており、海底に人工的に見える構造物があったら、古代の遺跡である可能性が高まっているからだ。
その端的な例は、二〇〇一の四月にインドで発見された砂の下の海底都市。インドの国立海洋技術研究所は、海底の砂の下の状態を見ることができる機器を開発して、アラビア海で試運転した。そしたらなんと海底三七メートルの砂の下に、都市の遺跡が映し出されたのだ。
海底都市の遺跡はインダス文明の遺跡と同じように、大通り、下水、井戸、住居跡を持っていた。しかも少なくとも九キロ四方もある大きな都市遺跡だった。
このあたりは地震も多い。だから、モヘンジョダロ遺跡と同時代のものが地震で沈んだとも考えられる。だが、都市の姿がそのまま映し出されるということ は、地震による、大きな崩壊はなかったことを意味する。したがって、氷河期の後に海面が高くなったときに水没した都市の可能性が高い。そうなると、この大 都市は一万二〇〇〇年前頃のものになる。
このような事実があるので、海底にある人工的に見える構造物は、どんなものであれ、太古の構造物の廃虚である可能性が高いのだ。
海底の人口構造物はインドだけでなく、世界中に存在する。その詳細については現在、グラハム・ハンコックが執筆中の「沈んだ世界(ルビ:アンダーワールド)」を読んでいただくしかない。(つづく)
謝さん、黄さん、郭さん
「ダイチさん、見てみて、城壁が見えますよ!」と台湾の実業家・郭永生さんが叫ぶ。
ダイビングのタンクを背負って、マウスピースを口にくわえ、海に飛び込む寸前の私は、郭さんのいる船首まではいけない。仲間がすでに海底で待っている。だが、船際から身を乗り出して郭さんの指さす方向を見た。
驚いたことに鏡のように平らになった海面から、くっきりと城壁が見えた。海底に銀色の城壁が延々と続いている。
船の上から写真を撮りたい・・・と思ったが、これ以上仲間を海の底で待たせることもできない。しかたなく、バックロール・エントリー(背中から海に落ちるように入る方法)で海に飛び込むと、そこにあったのは黒茶色の岩の城壁だった。
ここは虎井島東側の岸壁から一〇〇メートル沖合。虎井島は中国大陸と台湾本島の間に横たわる澎湖群島の一つで、軍事要塞になっている。
台北の松山空港から南西に飛んで四五分、澎湖島の馬公に到着。風光明媚な澎湖島はハネムーン客や観光客であふれていた。だが、今回調査を共にした作家グラハム・ハンコックと私は翌朝からすぐに調査ダイブに取り組んだ。
朝の九時、「潮が流れているけど、まあ、ダイブできないこともないでしょう」と、城壁の発見者で案内役の謝新曦さん。
台湾の海底の城壁
そこでグループに分かれて飛び込んだ。私はグループ・リーダーの卓さんの案内にしたがった。城壁らしき岩の 崖に沿って、潮に逆らって進んでいく。途中に切れ目がある。ここは干潮で海が浅くなったときに通った船の船底がぶつかって壊れたのではないかと、謝さんが 言っていたところだろう。
潮の流れは強かった。だが、奇妙なことに時々、逆流ではなく、後ろからも押してくる。深さは三メートルから八メートルぐらいで浅い。浅いので長時間潜水できたが、潮と戦っているうちに疲れてきた。
第二回目のダイビングする前には、少し時間を空ける必要がある。だが、待つ間もなく海面が波立ち、あっという間に強烈な潮が流れ始める。
「ダイビングは無理だから上陸して島を見ましょう」と謝さん。
虎井島の港に入ると、軍隊のトラックと小型バスが待っており、島の東側の高台に登った。島の東側には防空壕がたくさんあり、高射砲や戦車が隠されている。この高台からはその日に潜った城壁一帯が一望にできるが、城壁のあるあたりで白波が立っている。
翌朝は朝五時に起きて六時には船に乗り、七時には虎井島の東側に着いていた。潮は流れていない。このあたりは八卦の潮といって、八方から潮が流れてくる。地元の漁師によると、潮が止まるのは朝だけだそうだ。
早速、海に飛び込んだ。まず、訪れたのは、城壁が円形になっている場所だ。直径二五メートルの丸い台座になっているという。確かに丸くなっている壁は確認したが、全体像はつかめなかった。丸い台座がすべて現在まで残っているのではないようだ。
城壁は四角い岩でできている
城壁に戻ると、岩を積んだような壁に出くわした。積まれたような石は、取り外すこともできる。大きさは三〇 センチx六〇センチぐらい。写真のように階段状のところもある。階段は自然にできた岩脈では考えられないものだ。城壁の厚さは二~三メートル。高さは場所 によって三メートルから五メートルぐらい。城壁は南北に二〇〇メートルほど延びており、途中に南北に走る城壁と交差している。北へ延びる城壁の端には丸い 台座の残骸がある。一方、東西に走る城壁も一五〇メートルほどは確認されている。東の沖に向かって深さ四〇~五〇メートルまでは城壁があるそうだが、私は 深さ二〇メートルのところから引き返した。城壁の近辺には四角い石がごろごろ転がっている。
一体これは、なんなのか?
澎湖群島には「沈城」の伝説が残っている。西暦七〇〇年ごろに、このあたりで城が沈んだというものだ。だが、当時の文献に地震の記録も残っておらず、地 質学的にも地震で沈下した様子はないと学者たちはいう。そうなると、海底から火山が吹き上げてできた岩脈だろうか? あるいは悠久の太古に存在した未知の 文明によってつくられた城壁の残骸だろうか?
一緒に潜った地質学者でベテランダイバーの黄漢勇さんは言う。「地質学者としては、本格的に調査しないとなんともいえません。でもダイバーとしては、古代の城壁だったらいいな、と思います」
「これは悠久の昔の城壁の廃虚に違いないと思う。さらなる調査は必要だが、まず間違いなく人工的な壁だ」とグラハム・ハンコックは断言。
では、私はどう思うか?
こんな石がたくさん転がって
「これは人によってつくられた城壁の残がいである可能性が強い」
なぜなら、最近、世界中で、海底に都市が発見されており、海底に人工的に見える構造物があったら、古代の遺跡である可能性が高まっているからだ。
その端的な例は、二〇〇一の四月にインドで発見された砂の下の海底都市。インドの国立海洋技術研究所は、海底の砂の下の状態を見ることができる機器を開発して、アラビア海で試運転した。そしたらなんと海底三七メートルの砂の下に、都市の遺跡が映し出されたのだ。
海底都市の遺跡はインダス文明の遺跡と同じように、大通り、下水、井戸、住居跡を持っていた。しかも少なくとも九キロ四方もある大きな都市遺跡だった。
このあたりは地震も多い。だから、モヘンジョダロ遺跡と同時代のものが地震で沈んだとも考えられる。だが、都市の姿がそのまま映し出されるということ は、地震による、大きな崩壊はなかったことを意味する。したがって、氷河期の後に海面が高くなったときに水没した都市の可能性が高い。そうなると、この大 都市は一万二〇〇〇年前頃のものになる。
このような事実があるので、海底にある人工的に見える構造物は、どんなものであれ、太古の構造物の廃虚である可能性が高いのだ。
海底の人口構造物はインドだけでなく、世界中に存在する。その詳細については現在、グラハム・ハンコックが執筆中の「沈んだ世界(ルビ:アンダーワールド)」を読んでいただくしかない。(つづく)
巨石遺跡
石柱
台湾の悠久の太古に文明が存在したことを示すのは、東海岸に見られる異様な巨石文化だ。
いろいろあるのだが、一番感銘を受けたのは、瑞穂市のそばにある「板岩石柱」と呼ばれる巨石。写真のように美しい石柱が立つ場所は、川を見下ろす台地で、四方八方を見渡せる開放的な雰囲気を持つ。いつの時代でも、このような場所は聖地とされていたに違いない。
一〇〇年前には三本の石柱が南北に一列に並んで建てられていたと言われるが、今は二本しか残っていない。大きな石柱の長さは地上六メートル、地下三メートル、重さ一二トン。
この石柱およびその他の巨石については、日本が台湾を統治していた五〇年間に、鳥居龍蔵博士などが考古学的研究を進めたが、もちろん、これらが何に使われたかは今も昔も不明だ。
卑南の柱
この石の特徴は上の方に見える横線の掘り込みだ。これは何か? 学者によってはこの石は人体を現しており、 横線の掘り込みは首の線だという。別の学者は、この巨石を建物の大黒柱として使ったという。だが一〇トン以上もある巨石を一〇キロ以上も離れた場所から運 んできて、家の大黒柱にするだろうか? 「板岩石柱」は南北に方位を定めて設置されているし、太陽観測か宗教儀式に使われたに違いない。
「板岩石柱」のある地帯には、原住民のブヌン族とアミ族が住むが、両者とも洪水伝説を持っている。
ブヌン族の長老は言う。「ブヌン族は以前文字を持っていましたが、大洪水が起こったとき、二人の兄弟が祖先の残した財宝をもって避難しました。でも文字を保管していた兄が、文字を流してしまい、このときから文字を失ってしまったのです」
謎のピラミッド山
他にもいくつか興味深い巨石があった。写真のハンコックさんが調べている石は、南米各地に見られる巨石とそっくりだ。このまま、ペルーのオヤイタイタンボ遺跡に置いたら、見事に溶け込むだろう。この大きな岩には突起がでているのだが、それがインカの巨石とそっくりだ。
写真の上の方が欠けているように見える石は、家の大黒柱に使ったのではないかと言われているが、確かなことは分からない。近代になって家の大黒柱に使ったとしても、古代では別の目的に使われたに違いない。この石は台東市の卑南遺跡のものだ。
穴の開いた石版が林立しているが、これも何に使われたかが不明だ。似たような石が、与那国海底遺跡のそばでも見つかっている。台湾の先史時代には、南米と共通する巨石文化が栄えていたようだ。
花蓮市から台北までは四〇分の空の旅だった。翌日は台北の北にある標高一一二〇メートルの七星山に登った。
台湾のインカ岩
入山禁止の山道を林勝義さん(台湾原住民族文化連盟)の案内で登っていく。休火山の七星山の山腹からは煙が 立ち、歩いていると硫黄のにおいで包まれる。一時間も登っただろうか、山頂はまだ先だが、林さんは薮の中に分け入っていく。だいぶ歩くと、大きな岩組があ る。その岩組みを越えると、林さんがピラミッドと呼ぶ小山が見えた。高さ二〇メートル、底辺三〇メートルの小山に登ると見晴らしはいい。だが山頂に登る と、突然、私の使っていたニコンF100のカメラのシャッターが降りなくなった。隣に登ってきたサンサ・ハンコック夫人のニコンF5もシャッターが使えな い。
だが山頂から少し場所を移動すると正常に機能する。ここには強烈な磁場があるらしい。小山の下も空洞になっており、大きな岩組みのところまでトンネルで続いているという。確かに異様な小山だ。
蓬莱島といわれる台湾は、謎の島だ。本当に蓬莱島なら仙人が住む、不老不死の地というわけだ。それはともかく、悠久の太古の台湾近辺に文明が存在したこ とは、間違いないだろう。なぜならその痕跡が海底にも陸地にもあるからだ。その上洪水伝説まである。最近の科学調査の成果で、最終氷河期が終わってから、 世界の洪水伝説の源泉となるような大洪水が、三回起こっていることがはっきりしてきている。
穴の開いた石板
だが、これまでの考古学は陸地しか調べていない。これでは現世人類の歴史五~一〇万年のほんの一部しかわか らない。考古学者ヘイエルダールが言うように、人類の歴史の真相がわかってくるのは、海底・水中考古学が興隆したときなのだ。私たちは、今ようやく、人類 の過去の真実を知る時代に入ったと言えるのだ。